雨が降っていて、人はいつもより少ないようでしたがそれでも多かったみたいです。
しかも北斎の浮世絵はもっと大きいなかにあんなに画かれ込んでいるのかとおもいきや、小さい!
胸の前に両手を持ち上げて広げるサイズにあんなに細かく描写されてるなんて!!
30cm以内に顔を寄せて見たいような精緻な…筆画じゃなくて、版画ですからね…彫師や摺師さんのお仕事を思うと、口から魂がぽわぽわ浮いていってしまいそうでした。
こんなのが全部国外にあるんだなぁ〜、と。
学芸員さんに30分ほど説明して頂いてから見たので、ただ見ただけでは見逃しそうな、鉄蔵じいさまのコロコロ変えた名前だとか、「そんなものまで表現しようとするか!」っていう唸りどころまで拾えたのがとても嬉し楽しかったです。
ずっと前に誰かが一生懸命埋めた宝物を、1つずつ探し当てる遊びみたいで。
▲「冨嶽三十六景 山下白雨」[後期] 天保2年前後 横大判錦絵
HAA:15928 1970年ジェームス・A・ミッチェナー氏寄贈
▲「冨嶽三十六景 凱風快晴」[前期]天保2年前後 横大判錦絵
HAA:15583 1970年ジェームス・A・ミッチェナー氏寄贈
この2つの富士景が、分かりやすく興味深くて、画面の富士山の構図はまるで同じようなのに、方や雲が細かい雨となって降るのを下から遠く眺めるよな視点で、方や雲の上から神鳴轟く雨雲と共に下を見下ろし山の向こうの海岸線まで見えるような視点。
もちろん「目で見えたそのもの」を描いているわけではありません。
それでもしかし、彼の中ではきちんと「見えている」んだとおもいます。
つまり、認識、というキイワードが出てくるんですが…他の沢山ある富嶽三十六景を眺めてまわればわかりますが、この…彼の…なんとも鮮やかな認識の変遷!
まるでシルクドソレイユみたいな色彩豊かで驚きたっぷりのサーカスを、全部ひと処にごっちゃ詰めにしたような脳をお持ちだったんだろうなぁ、と考えてはニヤニヤしてしいました。
あと、測量している人たちの視線を、雲母の粉でラインを引いて光が当たるとそのラインがキラキラ浮き上がって見える絵もおもしろかった。
絵を見る為に並ぶ人達を眺めててもおもったんですが、視線の力、ってすごいパワフルですよね。
誰かのその力を感じると、人は退いたり動きを配慮したりします。
(もちろん鈍い人も居るわけですが…博物館の中にお金払って入るような方には少ないようでした)
視線の力、見る力、それから、それらを知った上での「みせる力」…
世の中には、沢山のエネルギーで溢れているようです。